得意先台帳のいちばん古い1冊に、鉛筆で「昭和62年4月 初回見積」とだけ書いてあります。
相手は、隣の市の農機具メーカーです。
金属プレスの工場を営む社長は、そのページを開くと、決まって同じ話を始めます。
工場の前の道が、まだ砂利だったこと。
最初の注文が、草刈り機のカバーを留める親指くらいの金具だったこと。
届いた図面が手書きで、穴の位置の寸法がひとつ書いていなかったこと。
この話を最後まで聞いたことがあるのは、工場長と、古株の検査係の2人だけです。
台帳に残っているのは、日付と品番と金額。
どうやって始まったのかは、社長の頭の中にしかありません。
39年前のことは、聞かれないと出てこない
長く続いた取引の始まりは、社長本人にとっては「ただの昔話」です。
わざわざ書き残すほどのことだとは思っていない。
いざ書こうとしても、便箋の1行目で手が止まります。
止まるのは、何から書けばいいのか、順番が決まらないからです。
それなら、書く側をやめて、聞かれる側に回ります。
聞き手の役は、AIにやらせます。
ここでいう聞き書きは、話した人の口調を残したまま、聞いた側が文章に起こすやり方のことです。
社長が「あのころ、うちは機械が3台しかなくてね」と話したなら、文章もその言い方のまま残ります。
AIに、1問ずつ聞かせる
使っているAIの入力欄に、最初にこう打ち込みます。
これから、聞き書きの聞き手の役を頼む。話すのは、町の金属プレス工場の社長である私。
話題は、取引先のA社との付き合いが始まったころのこと。
質問は1回に1つだけ。私の答えを読んでから、次の質問を決めること。
「どんな意味があったか」のような大きな質問より、そのときの場所・物・言われた言葉を聞くこと。
年や数字は、私が言わないかぎり出さないこと。
10問聞いたら「今日はここまで」と言って止め、私が「たしか」「だったと思う」と言った所を一覧にすること。
使っているAIに、会話を学習に使わない設定があれば、始める前に入れておきます。
答えは、キーボードで打たなくても構いません。スマホの音声入力で話せば、そのまま字になります。
言い間違いや「えーと」が混ざっても、直さずに送ります。
それでもAIが「御社にとってA社とはどんな存在でしたか」のような大きな質問をしてきたら、「その日の場面を聞いて」と返します。
始める前の晩に、古い物を机の上に出しておきます。
いちばん古い得意先台帳。最初の納品書の控え。工場を建て増ししたころの写真。名刺入れの奥に残っている、向こうの先代の名刺。
この工場の社長の名刺入れには、肩書が「資材課長」のままの1枚が入っていました。裏に、ボールペンで自宅の電話番号が書き足してあります。
AIに聞かれて言葉に詰まったら、こうした物に目をやります。台帳の字の癖や、写真に写っているフォークリフトの色から、話の続きが出てくることがあります。
物の写真は、AIに渡さなくて構いません。社長が見るためのものです。
1回10問、3日に分ける
1回で全部を聞こうとすると、話は「おかげさまで」「ご縁があって」に落ち着いてしまいます。
初日は、最初の注文が来るまで。
AIの最初の質問は、たとえば「A社から初めて電話が来たとき、社長は工場のどこにいましたか」のような形になります。「事務所の、黒い電話の前」と答えれば、次は「そのとき工場には誰がいましたか」と続いていく。
2日目は、取引が細った時期や、不良を出して頭を下げに行った日のこと。
3日目は、向こうの担当者が代わったころから、いままで。
1回が終わるたびに、会話を全部コピーして、パソコンの文書ファイルに貼っておきます。
AIの画面の履歴だけに置いておくと、3日目に1日目の話を探すのに手間取ります。
AIが最後に出す「たしか」の一覧は、別の紙に写しておきます。
台帳や古い納品書の控えで確かめられるものは、そこで確かめる。確かめられないものは、相手に聞くまで印をつけたままにします。
文章にするとき、AIに話を足させない
3日分の記録がそろったら、新しい画面を開きます。記録を貼る前に、入力欄の頭にこう書いておきます。
下に貼るのは、私とAIの一問一答の記録。
私の答えだけを材料にして、私が一人で語っている文章にすること。
私の言い回しや口ぐせは、意味が通るかぎり残す。
記録に無い出来事・気持ち・年月は書き足さない。
話と話をつなぐ言葉が要る所は、[ ]で囲んで印をつける。
長さは2,000字まで。
返ってきた文章は、声に出して読みます。
自分が言いそうにない言い回しがあれば、そこはAIが整えすぎた所です。
「深い信頼関係を築いてまいりました」と、39年のあいだ一度も口にしたことがなければ、消して自分の言葉に戻します。
[ ]の中も、ひとつずつ自分の言葉に置き換えます。
本に入れる話と、手元のメモに残す話
聞き書きがたまってきたら、Kindle本にする道があります。
Amazonで誰でも読める本になるので、読むのは社内の人だけではありません。
相手の会社の人が読むかもしれない。これから入る社員や、新しいお客が読むかもしれない。
だから、話したことを全部は入れません。
向こうの前の担当者への不満。値下げを飲んだ年の単価。支払いが遅れた月のこと。
こうした話は本には入れず、手元のメモに残します。
会話の記録から抜き出して、別のファイルにしておく。消してしまうと、次にその相手と値段の話をする人が、昔の経緯を知らないまま席に着くことになります。
それから、相手の会社名を本に出すなら、出す前に相手に一声かけます。
原稿を印刷して持っていけば、「たしか」の印をつけた所を、その場で聞くこともできます。
応接室で、向こうの社長が言ったこと
工場の社長は、[ ]を埋めた原稿を、農機具メーカーのいまの社長のところへ持っていきました。
先代の息子で、年は一回り下です。
向こうの社長は、最初の金具の段落を読んだところで顔を上げました。
「この寸法が書いてなかった図面ですけどね。父は、わざと書かなかったって言ってましたよ」
「わざと、ですか」
「どこまで電話で聞いてくるか、見てたらしいんです。聞かずに作ってきた所とは、それきりだったって」
「その話、もう少し聞かせてもらえますか。録っても構いませんか」
「父の手帳が、たしか倉庫にまだあるんですよ。昭和62年のも」
「見せてもらえるなら」
「探してはみます。ただ、父の字は、私でも半分くらいしか読めないんですが」
聞き手を、AIではなく人に頼みたい方へ: このブログの運営者は、Kindle 本の出版代行をしています。聞き書きの聞き手の役をこちらが受け持ち、オンラインで3〜4回、各60分ほど質問します。言い直しや話の脱線はこちらで整えて、章立てから原稿まで仕上げます。
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登場する人と会社に、実在のモデルはありません。アイキャッチのイラストはAI生成です。


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