町の印刷所のカウンターで、校正刷りを待っていた酒蔵の新しい担当者が、壁の棚を見ながら言いました。
「印刷屋さんなのに、自分の会社の本って無いんですね」
社長の塩見さんは63歳。この印刷所の2代目で、来年の春に創業50年になります。
本が1冊も無いわけではありません。棚のいちばん上に、父が25周年のときに自分の機械で刷った、ホチキス留めの小冊子が2部。表紙の緑は、日に焼けて灰色に近くなっています。
(ここに出てくる会社と人は、よくある例を組み合わせた作り話です。)
父の代は書いてある。自分の代は、誰も書いていない
25周年の冊子に書いてあるのは、創業から2001年までのことです。活版の機械を中古で2台買った話、町の農協のチラシを毎週刷っていた話。
塩見さんが父から会社を引き継いだのは2002年でした。それから24年。父が社長だった25年と、ほとんど同じ長さになりました。
製版の暗室をつぶしてパソコンに替えたこと。複写伝票の注文が年ごとに減っていったこと。名入れカレンダーをやめかけて、やめなかったこと。
このあたりを覚えているのは、社内では塩見さんだけです。今の社員7人のうち、2002年より前からいるのは1人しかいません。
50年の本は「2代目の24年」を中心にすることにしました。
自分の話は、自分では思い出せない
ところが、机に向かって書き出してみると、1ページ目で手が止まりました。
自分がやってきたことは、毎日のことすぎて、どれが話になるのかが分からない。暗室をつぶした年さえ、2005年か2006年か、はっきりしません。
そこで、自分の代を外から見ていた人に聞くことにしました。20年以上カレンダーを頼んでくれている酒蔵の元総務課長と、2019年に退職した元社員の植田さん。植田さんは、暗室のころから版下を作っていた人です。
聞く相手に失礼のないよう、質問の下書きはAIに作ってもらいました。使ったのは手元のAIの無料版です。年表代わりに、覚えている出来事を10行ほど書き出して、次の文と一緒に貼りました。
地方の小さな印刷所の、2代目社長の24年を本にします。読むのは、お客さん・取引先・これから入る社員です。
下の出来事のメモをもとに、次の2人に聞く質問を、それぞれ10個お願いします。
(1) 20年以上の取引先の元担当者 (2) 元社員で、製版の仕事をしていた人
・「社長はどんな人でしたか」のような大きな質問は使わない
・その日の様子、値段、言われた言葉、使っていた道具など、答えが具体的になる聞き方にする
・うまくいかなかった時期のことも聞く
・相手が答えたくない話を、無理に聞き出す質問は入れない
【ここに出来事のメモを貼る】
返ってきた20個から、塩見さんは半分ほどを残しました。消したのは、答えを自分がもう知っているものと、植田さんに聞くには気まずいものです。
残した中には、「暗室を片付けた日、最後に捨てた物は何でしたか」「カレンダーの色見本を初めて見せられたとき、どう思いましたか」といった質問がありました。
喫茶店で1時間、庭先で1時間
元総務課長とは、駅前の喫茶店で会いました。録音してよいかを先に聞いて、スマホをテーブルの端に置きます。
話は、質問の紙の順番どおりには進みません。カレンダーの話を聞いたのに、返ってきたのは、2011年の春に納期を2日遅らせてもらった話でした。塩見さんは、そのことをすっかり忘れていました。
元総務課長は、その年の手帳を持ってきていました。4月のページに、青いボールペンで「塩見印刷 2日」とだけ書いてあります。
植田さんには、家の庭先で話を聞きました。暗室を片付けたのは2006年の8月で、最後に捨てたのは現像液のポリタンクだった、と植田さんは言いました。年がはっきりしたのは、このときです。
録音は、あとで聞き直して、中身だけ打ち込みます。一言一句でなくて構いません。「2006年8月、暗室を片付け。最後はポリタンク。植田さんが一人で運んだ。社長は銀行に行っていていなかった」くらいで足ります。
メモを章にするとき、AIに足させない
2人分のメモと、塩見さん自身のメモがそろったら、1章分ずつAIに貼ります。
下のメモをもとに、本の1章分の下書きをお願いします。語り手は社長本人です。「です・ます」ではなく、社長が人に話すときの言葉づかいで書くこと。
取引先や元社員が話したところは、その人の言葉のまま残すこと。
メモに無い出来事・年・数字は、足さないでください。
【ここにメモを貼る】
最後の1行を入れておくのは、メモのすき間を、AIがもっともらしい出来事で埋めにくるからです。
この1行を入れる前に試した下書きには、「2008年にはデジタル印刷機を導入し」と書いてありました。メモのどこにも無い話です。実際に入れたのは2010年でした。
下書きができたら、年と数字にだけ蛍光ペンを引いて、1つずつメモと突き合わせます。合わないものは、本人か、話してくれた人に確かめ直します。
名前の扱いも決めておきます。AIに貼る前に「酒蔵A」「元社員B」と置き換え、下書きができてから元に戻す。本に名前を出す人には、該当の章を印刷して渡し、読んでもらってから決めます。
本に入れる話と、手元に残す話
この本は、Amazonで誰でも読めるKindle本にするつもりです。名刺と一緒に渡したり、カウンターに「50年の歩み」と書いたカードを置いたり、ホームページに載せたりできる形です。
読むのが、お客さんと取引先と、これから入る人。そう決めると、入れない話もはっきりしてきます。
今年の春に入った22歳の社員に、試しに第1章の下書きを読んでもらうと、「暗室って何ですか」と聞かれました。暗室の説明を2行足すことにしました。
2009年に、農協のチラシの仕事がなくなりました。その年の秋、社員2人に辞めてもらっています。
この話は、本には入れないことにしました。辞めた2人は今も町に住んでいて、本はその人たちの目にも入ります。
そのかわり、パソコンに「本に入れない話」というファイルを1つ作って、覚えていることを全部そこに書きました。誰に何と言ったか、退職金をどう工面したか。いつか3代目が読むかもしれない、手元だけのメモです。
同業者とのもめごとや、昔の取引先への恨み言も、同じファイルに回しました。
植田さんからの電話
決まらないのは、2011年の章です。
あの年、塩見さんは一度、会社を閉めることを考えました。元総務課長が話してくれた「納期を2日延ばした話」は、その真ん中にあります。
入れれば、そのあと名入れカレンダーに力を入れた理由がつながります。けれど、閉めようと思ったことを、これから入る人に読ませてよいのか。
下書きの章を植田さんにも送っておいたら、先週の木曜の夕方、店の電話が鳴りました。
「あの年の話、載せていいと思いますよ。ただね、閉めるって最初に言い出したのは、社長じゃなくて先代でしょう」
塩見さんは「いや、あれは私が」と言いかけて、受話器を左の耳に持ち替えました。カウンターの向こうで、断裁機が3回、紙を落とす音がしました。
会社の歩みを1冊にしたい方へ: このブログの運営者は、社長の話を聞いて Kindle 本にする出版代行をしています。Amazon で誰でも読める本になるので、名刺と一緒に渡したり、ホームページに載せたりできます。書くのはこちらで、社長はオンラインで3〜4回、各60分ほど話すだけです。
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登場する人と会社に、実在のモデルはありません。アイキャッチのイラストはAI生成です。


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