「あれは断った。理由? もう忘れたわ」
父はそう言って、作業帽を脱いで食卓に置きました。
息子の手には、事務所の棚の奥から出てきた青い紙ファイルがあります。背表紙に、マジックで「H10 大手PB」。
中には、県外のスーパーから届いた見積もり依頼の控えと、父の字で書いたメモが1枚だけ。「断る。10/15 電話済」。
なぜ断ったのかは、どこにも書いてありません。
(ここに出てくる会社と人は、よくある例を組み合わせた作り話です。)
残っているのは、決めたことだけ
会社の書類に残るのは、たいてい「何を決めたか」です。
この取引先とは続ける。この値上げは飲む。この機械は買わない。あの話は断る。
そのとき何を比べて、何を捨てたのかは、先代の頭の中にしかありません。
継ぐ側が困るのは、同じような話がもう一度来たときです。
前は断っている。でも、断った理由が「もう合わないから」なのか「今なら受けてもいい理由」なのかが分からない。
この会社でいえば、平成10年の工場は窯が2基で、今は3基あります。取引先の数も、社員の顔ぶれも違う。
当時の理由が分かれば、「その理由は今も生きているか」を確かめられます。分からなければ、前例に従うか、無視するかの二択になります。
先代が元気なうちなら、聞けば済む話です。聞き方さえ間違えなければ。
「なんで?」と聞くと、答えは短くなる
冒頭の息子が最初にやったのは、夕飯のあとに「あのPBの話、なんで断ったの」と聞くことでした。
返ってきたのが「忘れた」です。
本当に忘れているとは限りません。30年近く前のことを急に「なんで」と聞かれると、人は理由を1つにまとめようとして、まとまらずに黙ります。
それに、親子の「なんで」には、責める響きが混ざりやすい。聞いた本人にそのつもりが無くてもです。
この夜も、父は「忘れた」のあとテレビの音を1つ上げました。話は終わり、という合図です。息子はファイルを脇に抱えたまま、二階へ上がりました。
理由そのものを聞くのをやめて、そのときの場面を聞く手があります。
その電話をかけたのは朝だったか夕方だったか。そのころ工場のラインは何本あったか。相手の担当者はどんな人だったか。断ったあと、誰かに何か言われたか。
こうした問いなら、答えは「覚えている絵」から出てきます。理由が、その絵の中にまぎれて一緒に出てくることもあります。
質問の下書きは、AIに作らせる
場面から聞く質問を、自分で20も考えるのは骨が折れます。ここは、手元で使っているAIに下書きを頼めます。
渡すのは、分かっている事実だけ。年と、何の話だったかと、先代が決めた結果です。
小さな食品製造会社の二代目です。創業者の父(70代)に、昔の経営判断の理由を聞きたい。
判断: 平成10年ごろ、県外の大手スーパーからPB商品の製造を頼まれ、断った。
父に「なぜ」と聞くと「忘れた」と返ってくる。
当時の場面を思い出してもらう質問を20個作って。条件は次のとおり。
・「なぜ」「どうして」で始めない
・時刻、場所、人、数字、物のどれかを聞く
・責めているように聞こえる言い方を避ける
・答えやすい順に並べる
出てきた20個を、全部使う必要はありません。
父の口ぐせや、その年に工場であった出来事を知っているのは息子のほうなので、そこに引っかかりそうなものを6つか7つ選びます。
この会社の息子が選んだのは、「その話が来たとき、工場の二号ラインはもう動いていたか」「電話は事務所の黒い電話からかけたか」「断ったあと、母さんは何か言ったか」といったものでした。
選んだ質問は、紙に大きめの字で書いておきます。スマホの画面を見ながら聞くと、取り調べのような空気になります。
50代、60代の社長なら、この質問を向けられる側に回る日も、そう遠くありません。頼み方の「父」を「自分」に、判断を自分の代のものに書き換えれば、自分あての質問が20個出てきます。
聞かれてから思い出すより、今のうちに手帳に書いておくほうが楽です。1つの判断につき3行。いつのことか、何と比べたか、誰が反対したか。
その手帳が机の引き出しにあれば、子どもが夕飯のあとに「なんで」と聞いてきても、「忘れた」と言わずに引き出しを開けられます。
日曜の午後、録音は47分
聞いたのは、工場が休みの日曜の午後2時ごろ。場所は事務所ではなく、実家の居間です。
スマホの録音を回して、テーブルの端に伏せて置く。父は最初だけそれを見て、あとは気にしなくなりました。
二号ラインの話から入ると、父は機械の型番まで言いました。導入の年も、据え付けに来た業者の名字も。
三つ目の質問あたりで、話が勝手にPBのほうへ流れていきます。
「あの量を受けたら、うちの名前のおかきを焼く窯が空かんかった」
「向こうは年に2回、値段の見直しがあるって言うてきた。2回やぞ」
「母さんは受けたらええ言うてた。給料がちゃんと出るからな」
質問が効いたのか、日曜の昼の居間で機嫌がよかっただけなのかは、息子にも分かりません。紙に書いた7つの質問のうち、読み上げたのは3つだけでした。
1回で聞くのは、判断1つ分にしておきます。PBの話と、平成20年に二号ラインを入れ替えた話を同じ日に聞こうとすると、どちらも浅くなる。次の日曜に回せば済みます。
書き起こしをAIに渡す前に、名前を消す
録音は、そのままだと聞き返すのが大変です。録音アプリによっては書き起こしの機能があるので、テキストにしておくと、あとで探せます。
そのテキストをAIに渡して、理由にあたる発言だけを抜き出させることもできます。
ただ、先代の昔話には、取引先の会社名や担当者の名字、社員の家庭の事情がふつうに出てきます。
AIに貼る前に、会社名は「A社」、人は「担当者B」のように置き換えます。父の言葉の中身はそれで変わりません。使っているAIに、会話を学習に使わない設定があれば、それも入れておきます。
次は、父への聞き取りの書き起こしです。
話の中から「PBの製造を断った理由」にあたる発言だけを抜き出して、本人の言い方のまま並べて。
自分で要約したり、言葉を足したりしないこと。
理由どうしが食い違っている所があれば、それも指摘して。
いずれ本の形にして、取引先やお客、これから入ってくる社員に読んでもらうなら、ここで線を1本引いておきます。
窯の話や値段の見直しの話は、読まれても困りません。取引先の担当者への文句や、社員の家の事情は、本には入れず、手元のメモに残します。抜き出した発言の横に「本」「メモ」と1文字ずつ書いておけば、あとで迷いません。
二杯目のお茶が空になったころ
録音の最後のほうで、息子は「で、結局いちばんの理由は?」と聞いてしまいました。
父は少し笑って、「あの担当が気に食わんかった。それだけや」と言った。
窯の話も、年2回の値段の見直しも、母さんの反対も、そのあとは出てきませんでした。
どれが本当の理由なのかは、書き起こしを何度読んでも決められません。「気に食わんかった」の行の横には、まだ「本」とも「メモ」とも書いていない。
今のスーパーへの返事の期限は10月20日です。次の日曜の午後2時、息子はまた居間で録音アプリの赤いボタンを押しました。紙に書いてきた質問は1つだけ。「その担当の人、名前覚えてる?」
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